ウィリアム・ゴールディング『蝿の王』
- 作者: ウィリアム・ゴールディング,William Golding,平井正穂
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1975/03/30
- メディア: 文庫
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ヘンリが遊びに飽いて、浜づたいにぶらぶら歩きだすと、ロジャーも、椰子の木陰をぬい、何気なしに同じ方向へ行く格好で、その後を追った。ヘンリは、椰子の木陰から離れて歩いていたが、いかにもまだ幼くて、日光を避けて歩くということは、考えもつかないことだった。彼は、浜辺を下り、波打ち際で忙しそうに動き始めた。ちょうど、太平洋の潮が満ちかかっているところだった。礁湖の概して静かな海面が、数秒ごとに一インチずつ高まり、そして、浜辺へ押し寄せつつあった。大海から打ち寄せるひと波の中には、無数の生物がいた。それは微小で透明な生物で、乾ききった灼熱の砂上に寄せる波とともに、何かを求めてやってきているようであった。微妙きわまりない感覚器官をもって、これらの生物は、この新しい場所を調べていた。この前、ここに来襲したときには見つからなかった餌が、こんどは見つかったらしかった。それは、鳥の糞だとか、昆虫だとか、陸地の生き物の屑切れだとかいったものらしかった。鋸の無数の小さな歯のように、これらの透明な生物は、浜辺にやってきて、いろんなものを食いちぎっていった。
ここには子どもの世界がある。十五少年漂流記の世界には結局は大人しかいないように思える。子どもは言うことを聞かないし、飽きっぽいし、すべて冗談にしてしまって大切なものを失ったことを否認する。取り返しがつかなくなっても遊ぶことをやめられない。主人公でリーダー役をつとめる金髪少年のラーフは、そうする頭脳が自分に足りていないことにうすうす勘づいている。リーダーシップをとる役目になる人間が、知性をそなえているとは限らない。参謀役のピギーは太っていて、周りからいつもバカにされている。ピギーはこの島に漂着した人々のなかでもっとも優秀な知性をもっているが、とはいえ彼だって子どもであり、とつぜん卑屈になったり尊大になったりして距離がつかみづらく、彼がリーダーになれないのもわかる。双子のサムやエリックのように、ラーフとピギーはふたりで一つだ。だから、彼らにいずれ別れがくることを読者はそれとなく予感する。十五少年漂流記のドノバンのようには、ジャックはけっして悪役ではない。ラーフは子どもたちに彼らが望むものを与えてやれない。
『蝿の王』の文章の特徴をいくつか上げるとすると、――描写が細密さと雄大さを兼ね備えていて、様々なスケールを往還する。それでいて誰がどこで何を見ているかはっきりしている。プロットを要約するような俯瞰的な描き方ではなく、常に現在との繋がりをもった動きのある具体的な場面として描いている。象徴として持ち出される鮮やかな比喩が描写としても正確であり、どちらにも解釈できるようになっている。象徴に離陸する寸前で精確さにこだわっているといえる。その緊張関係は、小説世界に〈蝿の王〉を目覚めさせるために、それと対峙するサイモンを殺さねばならないというプロットにも現れている。ほら貝にしたってそう、半分割れた眼鏡にしてもそうだ。秩序の象徴を几帳面に破壊していく。だが、それで秩序が破壊されました、と書いているわけではない。ピギーが前もって予告されていた岩に飲み込まれて死んだ。具体的にはそれだけだ。そこに留まりつづけることがいかに難しいことか。実存だの、内面の悪だの、書いてしまったらおしまいになることを寸前で堪えつづける。
そうでなければ小説にならない、と思う。