フィリップ・K・ディック『トータル・リコール』
- 作者: フィリップ・K・ディック,大森望,浅倉久志,深町眞理子
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2012/07/05
- メディア: 文庫
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映画化原作の「トータル・リコール」「マイノリティ・リポート」二本を含む十篇のディックの短編集。
「トータル・リコール」:
ヴァーホーヴェンの映画版はかなりうまく脚色されていたのだなと思う。短編はほぼ序盤の部分だけで、けっこう奇妙なドタバタコミカル。台詞の圧縮率の高さでもってよくわからん熱量で進んでいくのは短編の魅力だと思う。これは現実なのか埋め込まれた記憶なのか、というよりも、リコール社は記憶ではなく世界を製造しているのか?という気分になる。そう解釈したのだが、どうでしょうか。
正直、なにが起こってるのかよく分からなかった。そういう感触が後を引く。こういう世界の破れ目のような、「閉じていない感じ」があるほうが面白い。
「出口はどこかの入口」:
うまいことできている(それは閉じているということでもあるが)。出口は自分のためだけに用意されていたのに、自分でそれを閉じてしまう。カフカの「掟の門前」ってこんな話だっただろうか。最後のロボットの台詞、「わたしはあなたをとても誇りに思いますよ」が切ない。アイロニーのパンチライン。
「地球防衛軍」:
地下シェルターの外部ではまったく違うことが起きているのかもしれない。スパイ大作戦でもそういうエピソードがあったし、『10クローバーフィールド・レーン』などもある。一度扱いたい種類のサスペンスだ。ソ連とアメリカの核戦争、汚染された世界で戦っているロボットたちの言葉は本当なのか? 「実は戦争は狂言で、地球はロボットが支配しているのでは?」という予想をさせて、そこから意外な展開になる。
ディックにはわりと楽天的な面もあるのかもしれない……「ミスター・スペースシップ」と似た読後感。
「訪問者」:
タイトルの意味がわかったとき……という構成。あまり好きな種類の結末ではないが(説教臭いというか、作品として閉じてしまう感じがある。テッド・チャンを読んだときの無性にムカつく感じに近い)、こういう落とし所があると短編としては締まりがいいのだろう。
あの角質の青い皮膚をした巨人たちは、典型的なミュータント属だ。〈トカゲ〉と呼ばれている。体色が砂漠のツノトカゲに似ているからだ。放射性の植物と空気に適応した内臓器官のおかげで、彼らはこんな世界でもやすやすと生きていける。鉛の服と、偏光ガラスのフェースプレートと、酸素ボンベと、鉱山の地下で栽培した特殊な無放射能の粒状食[ペレット]がなければ、トレントにはとても生きていけない世界でも。
ミュータントたちには〈コロガリ〉〈イダテン〉〈ミミズ〉〈トカゲ〉〈アリンコ〉などがいる。映画などの視覚的描写であれば、デザインからそれぞれを区別するように描けるのかもしれないが、こういう具合に種族全体を要約する言葉がないと短編ではどこで何をしているのか一気に分かりにくくなる。この手のテクニックは納得できるとはいえ、なにか乱暴に思えるところもある。
「世界をわが手に」:
”フェッセンデンの宇宙”を思い出す。余暇として〈世界球〉で世界を造り上げ、人間たちは神のように暴虐にふるまう。設定からオチは想像できるものの、予感にとどめているところが品が良いのだろう。ここからぜんぜん関係ない話になったら好きかもしれないが、どうすればいいのかよくわからない。
「ミスター・スペースシップ」:
解説で大森望が「バカSF」と書いていた。いっけんいい話風だが、元妻にしてみればふざけんな殺すぞってなってもおかしくない。アダムとイブがいい話風になるのは聖書という枠があるからで、のちの人類のために性行為がこの手の極限状況によって半ば強制されるのは、まともな人権意識があればたまったもんではないと思う。
たとえば『猿の惑星』でも、ほぼ無意味に、というか当たり前のように、主人公に女があてがわれて当たり前みたいな顔をする。要は、人口が激減して繁殖が求められるようになる極限状況によって、性暴力が曖昧に物語によって肯定される、という構図の作品が嫌いだ。性格の悪い人間の考えるトロッコ問題みたいで。無理やりセックスするぐらいなら人類なんかさっさと滅べばいい。
結末以外には関係ない話ですが。正直、あんまり言うことがない。
「非O」:
こっちのほうがバカ度高くて面白い。字面をパロっただけでヴァン・ヴォークトまったく関係ないです。子供を心理学者に診療させるしっとりした場面から、予測できないスピードで話が展開し、だんだん爆弾のスケールがギャグ漫画の速度感でガンガンに上がっていく。
「フード・メーカー」:
これはけっこう面白かった。思考盗聴ができるミュータントに対抗するため頭環[フード]が何者かによって製造されている。ヒッチコックめいた古典的な逃亡劇、敵か味方かわからないまま一場面で複合的に展開するプロット(クラシック映画みたいな語りの経済効率)、そして意外な結末。ミュータントの能力に秘められた逆説。あるアイデアが二重の機能を持っていたとき特有の快感、そういうことをやってみたい。
「吊されたよそ者」:
これも佳作だと思う。その辺に吊された死体があるのに、街の住民は誰も疑問に思わない。物理的に何かがおかしいわけではないが、異変が起こっているのが明白にわかる。パラノイア爆発、この街は何者かに支配されている、そして……〈吊された死体〉の二重の意味と機能が明らかになる。不気味さが合理的な構図に収まる瞬間、ミステリー的なその快感。言い回しでオチをつける「訪問者」より、こういうもののほうが明白にうまいと思う。
「マイノリティ・リポート」:
完璧なはずの犯罪予防システムが、殺人犯を予告した。それが自分であったとしたら……映画とはかなり違う展開になるが、これも古典的な逃亡劇(敵と味方が効率よく反転していくところにヒッチコック感がある)で、かなり面白い。殺さないはずなのに、殺しに接近していく逆説。予言のサスペンスは《オイディプス》にまで遡るのかもしれないが、いつまで経っても面白いのかもしれない。システムの正しさを証明するためには、実際に殺人を行うしかない。
マイノリティ・リポートの存在は、予言の解釈の多様性ということで処理しているようなのだけども、説明的なわりに分かりにくく、短編のスピード感を損なう過剰な複雑さがあると思う。アイデアがひとつの鮮やかな構図に収まっていかないというか、ここが「吊されたよそ者」みたいに画が浮かぶような処理ができていたら完璧だったかもしれない。そうであれば、別のタイトルになっていたかもしれないが。
スピルバーグの映画では、マイノリティ・リポートはひとりの記憶映像のみに焦点を当てたサスペンスだった。映画ではそうでなければ処理できないと思われる。それとは別に、システムの隙をついた意外とミステリー的なオチもある。そこがわりと原作っぽくもあるということか。