馬上の二人

読書記録。ネタバレ有り。

ジュール・ヴェルヌ『十五少年漂流記』

 

十五少年漂流記 (新潮文庫)

十五少年漂流記 (新潮文庫)

 

 異様にテンポのいい小説である。なぜか。少年たちのなすことがすぐに行動に還元されてしまうからだ。原題は「二年間の休暇」で、これだけのページ数でよくそれだけの時間経過を表現することができるな、という疑問がまず浮かぶ。『十五少年漂流記』にはある種の科学的な精確さがあり、冒頭には地図が付され、ページ数に比して明らかに量の多い登場人物たちがいつどこにいるかをまったくごまかすことがない。この小説は、近視眼的な描写に拘泥しない。梗概のような、骨組みになる寸前の、ほんの少しの肉付けがされたプロットのような文章。その思いきりのいい清潔さに、まずは驚かされる。孤島での二年間はあっけなく経ってしまうが、場面間を大きく中略するような省略技法はとらずに、変化の瞬間をとらえるような描きかたをしている。

 スルギ号を解体したあと、荷物を運ぶ筏を作らなければならない。期間は少なくとも一ヶ月は必要である。洞穴に向けて出発するのは、五月の初めになる。島の五月は、北半球の十一月、冬が眼の前に迫っている。この仕事はできるだけ急がなければならなかった。

 その日、すぐさま川岸の林にテントを張った。テントといっても、ぶなの木の枝に長い枝を渡し、その上に帆布をかぶせたものだ。

 船からこのテントに、さしあたり必要な食糧、衣服、鉄砲、炊事道具などを移した。

 翌日から、少年たちは、オークランドの岸壁を離れてから二ヶ月間、苦難をともにしてきたスルギ号をこわしにかかった。この仕事の間は、強い風が吹いても文句を言えなかった。かえって船体がかわき、仕事がぐんぐんはかどるからである。しかしこの月の終わりになるにつれて、仕事の進みぐあいははかばかしくなくなった。

 年長者のプロジェクトにそって物語は描写される。登場人物は大空から俯瞰されている。細やかな内面に入り込むことはほとんどない。人間関係は、常に安定している。主人公ブリアンを僻むドノバンとの対立と、ゴードンの仲裁、という構図は最後までほぼ崩れない。いい奴はずっといい奴で、いやな奴はずっといやな奴。過ちを犯したものが危機的場面で身を挺した活躍をして、その劇的で勇気ある行動によって贖罪をすることで心理的なしこりがなくなり、すべてが丸くおさまる、というパターンが何人かに繰り返される。問題の提出と、矢継ぎ早な解決。読まれる部分では、常になにかが起こっている。この小説は、面白いことが起こった瞬間だけを繋ぎあわせるような書き方をしている。少年たちの生活の希望は、このような表現に支えられている。こうした内面との距離のとり方が崩れたら、地獄が出現するだろう。

 この明朗闊達で痛快な冒険の背後には、あっけらかんとした残酷さが常につきまとっている。少年たちの大統領選挙に、炊事でも操船でも活躍している黒人少年モーコーの選挙権がなかったり、とつぜん少年たちの口から「土人」「人食い人種」という言葉がためらいもなくつぶやかれたりする。少年たちは、チェアマン島でペンギンやあざらしやあらゆる鳥たちを発見するなり、略奪し、殺害し、なんのためらいもなく食糧と油の燃料源と毛皮と奴隷に還元する。獲物をつかまえたあとには、必ずそれが何羽だったかと数量が書き込まれる。

「あれを見たまえ」

 まずウィルコックスが海岸を指さした。岩の下には、ペンギンが群れていた。

「まるで小人の観兵式のようだね」

 サービスが手をたたいて喜んだ。

 ペンギンは、少年たちの姿を見ても逃げようともしなかった。少年たちは、ありあわせの棒や石で、またたくまに何十羽となく倒した。ドノバンはみな殺しにしたがったが、ブリアンは止めた。ペンギンの脂でも蝋燭を作れないことはない。だが、海岸には、もっと大きな動物がいたのだ。それは、あざらしだった。

 小説の最後には、作者がひょっこり顔を出し、「この書から引き出される教訓」を伝える。ここはもしかしたら笑うべきところなのかもしれないが、私にはそう解釈する自信がない。未来を切り抜ける力は、見ず知らずの他者を自らに隷属するものとして扱う支配の力学と表裏一体である。そういう当たり前のことを気づかせてくれる。