馬上の二人

読書記録。ネタバレ有り。

市川憂人『ジェリーフィッシュは凍らない』

ジェリーフィッシュは凍らない

ジェリーフィッシュは凍らない

 

  クローズドサークルものの構造をけっこう弄ったものである。『そして誰もいなくなった』『十角館の殺人』など、最後の定番の謎として「どうやって犯人は全員を殺したのか?」という問いが生まれ、犯人の他殺を装う自殺 or 犯人の隠蔽、クローズドサークルと思わせておいて外部への脱出、というパターンの二種類に分かれる。

 このトリックは手が込んでいる。大掛かりな叙述トリックが序盤から仕掛けられているし、ジェリーフィッシュという飛行船であることもトリックに寄与しながら、奇想に意外性と合理性を同時にもたらしている。

 文章がくどい。大事な部分を行空けと傍点で強調するのをやり過ぎていて、ちょっとうんざりする。探偵役?のマリア・ソールズベリーの年齢をうだうだ言うセクハラもかなり不愉快である(作者はこれを愉快なユーモアだと思いこんでいるのかもしれない、という感じの描写がつらい)。作家の持っている偏見は、「なにを笑い事にしているのか」でほとんど見えてしまう。性暴力が扱われている話で、こういう人権意識の主体を語り手のひとつに出して、しかもツッコミ役をさせているのがきつい。

 長く豊かな赤毛。角度によって燃えるような紅玉色に輝く神秘的な瞳。それなりに、どころではなく整った顔立ち。量感のある胸元から引き締まった腰、豊かに張った臀部、そしてしなやかな両脚へ流れる身体のラインは、ドレスを着せてグラスを持たせれば上流階級のご令嬢かと見まがうほどの美麗ぶりだ。

 しかし今の彼女の姿は、ドレスどころか普段着にすら劣る、全く目も当てられない代物だった。

 ブラウスはボタンがひとつ外れ、裾がスカートからはみ出している。湿気を吸った海藻のような張りのないスーツ。パンプスはそこかしこに泥がついている。髪の毛に至っては寝癖だらけで巻き毛と区別がつかない。

 警察官、それも警部という要職にあるまじき、全くいつも通りの身だしなみで、マリアは助手席に飛び乗った。

 こういうのが「ギャップ萌え」として面白がられる時代はとっくに終わっていてほしいものですが……

 言うまでもなく、こういう風に他人の見た目を品評するやつはカスです。仕事場において女性の価値を能力ではなく性的魅力で計るセクハラをこの語り手のひとりである九条氏は自明視していて、彼自身の服装・身体描写は透明化されている。〈量感のある胸元から引き締まった腰、豊かに張った臀部、そしてしなやかな両脚へ流れる身体のライン〉という官能小説ばりの陳腐で下品なひどい描写(もちろん官能小説であれば、陳腐であることはそれなりに大事なことなのだろうが)のように、性的魅力に沿って他人を評価することが、他の男性登場人物に向けられることはない。性的魅力をジャッジするのは男から女であって、男は女から見た目をジャッジされないという価値観がうっすらと前提にある。

 この九条という人物は、マリアに対して性的魅力では上げの評価、身だしなみと年齢では下げの評価をしていて、ときたまそれを平気で口にする。総体として「エロいところはいいが、もっと若くて服装に気を遣ってくれればもっといいのに」というセクハラ思考がダダ洩れになっている。本人としては「評価してやっているんだから、文句をいわれるのはおかしい」とでも思っているのかもしれない。年齢いじりとか見た目いじりとか、人間の尊厳を土足で踏み入っておもちゃにする話し方、こういう風にしかコミュニケーションのとり方を知らない人ってたくさんいるのだろうけれど……人間として、あまりに空疎だ。こういう人間と大切な話はできない。やってることがいじめの延長線上でしかない。これが作者の考えと同じでないことを祈るが、問題は作者当人の思想ではなく、小説として何が表現されているか、である。

 日本のミステリーは、本筋と関係ないところでの女性蔑視がきついと感じることが多い。いや、カーやクイーンにだって厳しいところはたくさんあるのだが、1930年代の人権意識が現代日本とそう変わらないというのは、どうなのか。