馬上の二人

読書記録。ネタバレ有り。

青崎有吾『体育館の殺人』

体育館の殺人 (創元推理文庫)

体育館の殺人 (創元推理文庫)

 

 学校の空間をかなり丁寧に描いていた。キャラクター描写はやや単純化されすぎるきらいがあるが、作品全体を統御する、細々としたオブジェクトや空間を緻密かつ精確に描写する意志が素晴らしいと思う。青春学園ミステリーの型に至るための重要なヒントをいくつか得られたような気もする。「密室」の構成要件として曖昧なところがあり、自分はこういう出入口の監視者の存在による心理的密室を密室とは認めたくない派で、結局はそこにトリックの余地もある。

 クイーン派のミステリーってだいたいそんな感じなのだが、蓋然性と心理的判断に基づいた不確実な消去法を「論理」(もっと酷いときには「演繹」)と称する典型的な詐術を、この作品も行っている。最初の傘一本で容疑者候補を除外する推論もそうで、心理的な整合性のなさから物理的に犯行可能だった容疑者を除外するという詐術が用いられているが、一部の推理小説でしか成立しない奇妙なレトリックである。

 最終的に犯人を限定する条件として、

 ・旧体育館放送室の利用者である

 というものがあるが、体育館に呼び出している時点で、この放送室を事前に調査していた可能性はある。目立たない桜羊羹の空き缶に入っているリモコンにだって気づいていた公算はある。蓋然性が高いとはいえ、ここは飛躍のある憶測である。〈ゴチャゴチャした部屋の中から探し当てようと思ったら、たっぷり十分はかかります〉こういう文章を読むとき頻繁に思うのだが、隠し場所のわかりにくさを前提にして、捜査時間を限定することはできない。最初に探した場所がそこなら1分とかからない。部屋のどこから手をつけはじめるかはかなりのところ偶然に作用される。こういう不確実な憶測を「論理」と呼んでほしくはない。

 また、別の条件として、傘に関する推論がある。ここは小説全体の核となっている読みどころではあるのだが、ひどい飛躍だらけである。まず、「傘を置いたのは犯人である」という主張は単なる仮定のはずなのだが、たいした検証もされないまま、いつの間にか前提事実にすり替わっている。そして、探偵は「傘を置いたのは偽装工作のためではない」ということを論証していくのだが、まず、天気予報で曇りとされていた日にあえて傘を置くという無秩序な捜査撹乱の可能性を忘れている。探偵は、これでは「偽装にならない」と言っているが、現に探偵の推理は混乱して、論理的には当然ありえるこの可能性を心理的に排除し、そこから犯人像を限定してしまっている。探偵は、事件当日に犯人が偽装工作として傘を入手した三つの可能性を、以下のような理由で排除している。

  1. 登校時、すでに持っていた→早朝に雨が降っていた以上、犯人は自分の傘と別の傘を二本持っていたことになるが、監視カメラにそのような人物が映っていない(3.とほぼ同様)
  2. 登校時、学校の中で手に入れた→この傘が新品同様の高級品であることから、犯人がそれを借りたり盗んだとしたら、元の持ち主が名乗り出ないのはおかしい
  3. 登校時、一度学校の外に出て手に入れた→学校はフェンスに囲まれ、出入りできるのは裏門・北門・正門だけ。裏門は証言者により却下。北門・南門は監視カメラがあるため、もしそこを通れば二本の傘を持った人間が映ることになるが、映っていない

 しかし、厳密にはこれらの諸可能性は排除できないはずだ。

 第二の選択肢の反例――その傘が新品同様の高級品であることから、犯人がそれを借りたり盗んだとしたら「元の持ち主が名乗り出ないのはおかしい」としているが、いくつかの事情が想定できる。たとえば、その傘が高級品であるのなら、その持ち主もまたどこかから盗んできた傘だったために、名乗り出ないということは充分に考えられるだろう。だいたい、殺人事件の現場に落ちていたものを「それは私のものです」と名乗り出る陽気なトンチキがどこにいるのか。いくら高級品だとしても、たかが傘ひとつのために、わざわざ容疑者候補リストに掲載される必要はない。(追記(2019/09/02):重要な可能性を忘れていた――共犯の存在である。探偵は、今回の犯人は単独犯だと推測しているが、その根拠はかなり薄弱で、殺人現場にいたのがおそらく一人であることを示しているに過ぎない。現場にあらわれなかった消極的な共犯者がいないことを示す証拠はどこにもないのである! その共犯者は、メインの実行犯に傘を貸すあるいは譲渡したが、そのことを黙っていたかもしれない。もちろん、犯人に言いくるめられて、共犯であることすら自分で気づいていなかった可能性もある。「あのとき借りた傘、殺人現場のトイレに忘れちゃってさ、お前のだって言ったら容疑者になっちゃうだろ? 傘代ぐらい弁償するからさ、お互いに黙っていようぜ」と持ちかけられたら、持ち主が名乗り出ないのはたいして不思議な話ではないだろう)

 第一・第三の選択肢の反例――傘がそれなりに大きなものであっても、こっそり学校内に持ち込む方法は色々とある。監視カメラの角度に映り込まないよう別の傘で覆い隠しながら運んだり、二つの傘を重ねたり、制服のズボン内に入れたり、スカートを長めにして足に縛りつけたり、その他諸々。そして、この簡単なトリックを誰かが指摘していないとおかしいと思うのだが、いくら学校が高いフェンスで囲まれていたとしても、犯人が直接そこをよじ登って乗り越える必要はない。傘だけを何らかの方法で放り入れて、校内で回収すればいいのである。緩衝材入りの袋にでも入れれば新品同然のまま着地させられるだろうし、校内の見取図をみると木が生えているようだから、あそこの樹冠に引っ掛ければ無傷で持ち込めるだろう。もしかすると、フェンスの穴のなかに傘を通せるものがあるかもしれない。執筆当時の2012年の技術で可能だったかはわからないが、ドローンを使うという大技もある。ここの学生なら校門の監視カメラには気づいているだろうから、いろいろなトリックを想定してもおかしくはないはずだ。実際にやるかはともかくとして、ミステリーとしては検討するべきである。しかし、実際に検討するとこの作品の推論は破綻してしまうだろう。学校は要塞や刑務所ではないのだから、傘ひとつを通せる抜け穴ぐらいいくらでも見つかるはずだ。(論理学は妥当性を検証するもので健全性を検証するものではない、という一般的な御託はさておくとして、)可能性を挙げていって論理的(?)に検証すると、結論はこの一つである、というクイーン風の推理小説の型というもの自体にそれなりの難しさがあるのだろう。厳密に可能性を考証すると、選択肢が増殖し、反例がいくらでも思いつく。ざっくりした蓋然性に留まるならもっと簡単に答えを出せるのに。わたしはクイーンが苦手だし嫌いなのだが、このオブセッションというか、主張を厳密にしようとすればするほど無理が出てくるという推理小説の困難さに対する格闘には、ある種の面白さがあると思う。

 

 さて、現場に残された傘が偽装工作のためではないと結論づけた探偵は、ちょっと意外な説明をする。ここが密室にも関わる面白いところなので、実際に読んで確かめてほしい。どうせ、犯人の意図を限定することには無理があるので、最初からこの説明にスッといってくれた方が粗が出ずに済んだのではないかと思うが、しかし上記のような場合分けがクイーニアンの興奮する推理の醍醐味なのだろう。「傘一本でこれだけの推理ができるのか」という……やりたいことは非常によくわかるのだが、意外性のある推理にはそれなりの無理が出てくるものだ。消去法によるフーダニットがどんなに危険な仮定を大量に呼び込むのか、という一例である。わたしは、もっとあからさまで言い逃れのしようがない証拠が出てくるものを好む。

 最後の条件として、犯人は男物の黒い傘を私物として持っていたのだから、〈考えるまでもなく、その人物が男性であることは明らかでしょう〉という部分が出てくるのだが、よくよく考えてみれば、男物を所持する女性/女物を所持する男性が現に存在しているのは事実だし、実際にいてもまったくおかしくないわけで、こういうジェンダーステレオタイプの押しつけは推理として誤謬があるとか以前に、端的に差別的だし、いかがなものかと思う(クイーンはこういうことをよくやるのだが)。探偵は、防犯カメラに映っていた黒い傘を差していた生徒が全員男子だったことを、この推論の「動かぬ証拠」と称しているが、それを根拠にするためには上述の1.~3.に対する反例を潰さなければいけないわけだし、それに、傘に隠されて監視カメラにろくに顔は映っていないのだから、男子制服を着た女子生徒が登校したというトリックも考えられる。この証拠は、前提によって結論が動きまくる証拠であるといえる。

 

 裏染天馬は探偵として能力が低い。それは、彼の主張に論理的妥当性がないからではなく、前提とされている事実や、ありうる可能性の検証を大量に見落としているため、主張の健全性を備えられないからだ。テストで取ろうと思えば満点を取れるぐらいに頭はいいわけだし、論理をいじくる能力はあるのだろうが、その根底を支えている想像力が足りない。これは探偵として致命的じゃないかと思う。

 天馬の推理は穴だらけである。別に、推理小説は最初からそういうものだと思うので、主張に穴があることは構わないのだが、わたしは、この探偵が〈正解率は百パーセントですよ。これから僕がお話しする推理は、思いつきや勘などでは決してなく、確固たる根拠に基づいた論理的事実だからです。フェアプレイですよ刑事さん〉と言っているところが気に食わない。

 この部分はラストと対応していて、探偵は自分の推理がフェアプレイではないことをこっそり白状してみせるのだが、だったら最初からクイーンの真似などするな、と思うわけである。どうせ確実にはならない論理ごっこを徹底して突き詰めるのか、舌を出すのか、どっちかにしてほしい。この手の中途半端さがいちばん嫌いだ。作家として逃げている。クイーンは結局のところ何ものにも辿りつかなかった作家だが、オブセッションから逃げているうちは、クイーンにさえ辿りつかない。