馬上の二人

読書記録。ネタバレ有り。

飯城勇三『エラリー・クイーン論』

エラリー・クイーン論

エラリー・クイーン論

 

 牽強付会が過ぎると思った。こういった、極端に一作家に好意的な評論はどうかと思うが、いろいろ論点を整理できたところもあった。「論理的な推理」について、その内実を具体的に問わずに、読者に論理的な推理だと思わせることに成功している……という風に逃げているところがズルい。

 

 「ギリシア棺」で提起された、操作された可能性のある手がかりの真偽を見極める処理の問題に対して、筆者は四つのルールを提案している。

  1. 手がかりaに基づく解決aと矛盾する手がかりbが発見されない限り、この解決Aは〈真〉とする。
  2. 別々の解決をもたらす手がかりaと手がかりbが混在する場合、名探偵に対してはっきりと提示されているほうが〈偽〉である。
  3. 手がかりaに基づく解決Aが〈偽〉だった場合、犯人はこの〈偽〉の解決によって利益を得る人物である。/(改訂版)手がかりaが〈真〉であることを裏付ける人物が、その手がかりaによって導かれる解決Aによって利益を得ることがない場合、手がかりaは〈真〉である。
  4. 犯人が〈偽〉の手がかりを作る場合、偽の解決Aを示す手がかりaと偽の解決Bを示す手がかりbを同時に作ることはない。

 ところで、これらのルールが論理的でもなんでもないことは自明である。筆者は図らずも、エラリー・クイーンの推理が論理的なものではまったくなく、単なる心理的な当てずっぽうに過ぎないことを示してしまっている。

 それぞれのルールについて、合理的な反例を与えることができる。

 

 ルール1に対する反例:

 そもそも、ルール1には特にこれといった根拠がない。X氏が犯人でありうる一貫性を伴った仮説が提示できるということと、その解決が正しい(つまり、X氏が実際に犯人である)ことには大きな違いがある。たとえば、弱い状況証拠の例を考えてみればいいだろう。わたしの近所の家で殺人事件が起こったとして、事件当時のわたしにアリバイがなく、現場にわたしの所持品であるボールペンが落ちていたとしよう。そして、仮にわたしが犯人である場合には矛盾する手がかりが出てこない場合――つまり、わたしが容疑者に留まり続ける場合だが――このことだけでは、わたしが犯人であると決定することはできないだろう。

 そもそも、このルールは筆者によると〈「真の犯人が何の手がかりも残さずに犯行を行うことは不可能」という、読者にも納得できるルールから導かれたもの〉だそうです……(いやいやいやどう考えても無理でしょ、現に未解決事件はたくさんあるでしょ、納得できるのはクイーンに心酔して牽強付会な屁理屈こねてるあんただけでしょ、という感じであるが)。仮に、この根拠薄弱な仮定を前提として認めたとしても、犯人が手がかりを残すことと、その手がかりが犯人を指し示すことはイコールではないため、このルールは成立しようがない。

 犯人による偽造のの手がかりと犯人自身による本物の手がかりが現場に混在していて、かつ、現場にある複数の手がかりがすべてX氏を指し示していながら、Y氏が犯人であることは当然ありうる。先程の例でいえば、わたしを犯人に仕立て上げたいY氏が、わたしの所持品である財布を犯行現場に置いておきながら、ついでにわたしから借りていたボールペンを偶然にも落としてしまう、という場合が考えられるだろう。推理作家であればもっとデリケートな場合を考え出せるだろうが。

 

 ルール2に対する反例:

 これが明らかに間違っていることに説明は必要だろうか?

 筆者は、〈犯人は名探偵に偽の解決をしてほしいわけだから、偽の手がかりに名探偵が気づくようにしなければならない。逆に言うと、偽の手がかりより目立つ真の手がかりがあったならば、犯人は必死にそれを隠そうとするはずである〉と述べている。

 だが、このルールに基づいて名探偵がそう推理するのであれば、犯人は真の証拠をはっきりと提示して、偽造された証拠を隠し気味にしておけば、「偽の解決」を導けることになる。だいたい、このような心理的憶測を含んだ推理は論理的でありようがない。

 ババ抜きで、残り三枚のカードのうち中央の一枚をわざと目立つように引き上げておくというしょうもないやつを誰もが一度はやってみたんじゃないかと思うが、その状態を見た人が「ジョーカーがどれであるかを論理的に導ける」とか言い出したらバカ丸出しである。……このルールはだいたいそれと同じことを主張しているわけだが。

 

 ルール3に対する反例:

 「このような心理的憶測を含んだ推理は論理的でありようがない」ということを繰り返しておしまいにしたいところである。もちろん、真犯人が自分が犯人だと導ける偽の手がかりを現場に残しておいたとしても、他の探偵ならともかくエラリー・クイーンみたいなバカなら騙されて容疑者リストから省くという「利益を得る」わけだし、別に自分に利益をもたらすわけでなくとも、誰かが怪しいと思ってこいつが犯人だという証言を曲げなかったりする場合もあるだろう。

 また、偽の手がかりに偶然性を仕込むという当然の可能性を指摘していないのも気になる。探偵や警察は複数の手がかりから犯人を絞り込もうとするのだから、犯人が「自分の利益を得ること」を予定して偽造の手がかりを撒けば、かえって容疑者の可能性を狭めてしまうのは当たり前のことである。だから、予測できる犯人の手法として、自分を含めた関係者一覧からランダムに選んだ人物の偽造手がかりを残していくのが望ましいことになる。もちろん、その手がかりは自分の愛する知人や共犯者、愛人、自分自身などの容疑を深めてしまうリスクがあるが、そのぶん自分が犯人ではないという探偵の心理的憶測を生むという利益を得られるだろう。なにより、このごく簡単な手法はエラリー・クイーンの推理法をほとんど完全に廃棄する効果がある。現実では通用しないが、あなたが推理小説内の登場人物であれば、是非やってみる価値がある。

 そもそも、当たり前のことだが、ティーカップの数だとか、事件現場に残された一本の傘とかいう解釈の余地・偶然の介入の余地がいくらでもある物品ひとつに推理を預けてはならない。冤罪の温床である。エラリー・クイーンは犯人の行為の偶然性に関する考察が決定的に欠けている。それが小説内の推理法を徹底して無内容なたわごとにしている一因だろう。

 

 ルール4に対する反例:

 なんでや。作ってみればいいやんけ。その行為ひとつでエラリー・クイーンはバグるほどのアホちゃんなのだから、やってみる価値ありありである。

 これは、筆者によれば〈「せっかく名探偵に偽の解決Aを押しつけたのに、わざわざ別の解決Bも押しつけようとしたら、ぶちこわしになってしまう」という理屈〉らしい。……いやはや、意味不明である。ごく常識的に犯人の利益を最大化する心理を考えてみても、犯人の目的はふつう、事件が解明されないことであって、特定の解決Aを押しつけることではない。複数の証拠を混在させておいて、探偵が事件の解決案をひとつに確定できなければ、容疑者のまま最後まで逃げ切ることができる。

 というか、この方法は現実にも使われているんじゃないだろうか。そのへんで拾ってきたゴミとかDNA検査できる他人の頭髪、関係者の所有物などを事件現場にばら撒くだけで済むので、けっこう簡単に捜査を撹乱することができる。やりすぎると意図がバレバレになるので、さり気なさが肝腎だろうけれど。

 

 そんなわけで、『エラリー・クイーン論』は間違いだらけであり(評論としてのフェアプレイ性は皆無に等しいが、筆者がとにかくクイーンが好きらしいことは伝わってくる)、クイーンの推理が単なる心理的な当てずっぽうであることを実証する一冊になっている。わりと論点が整理されているため、大雑把な見取り図としては便利な本ではあるかもしれない。